気持ちを聴くということ
何しろ『日本・精神技術研究所』、人の心という捉まえにくいシロモノにとにかく40年以上関わってきた会社です。
ただ、それではわが社の社員が皆その方面のエキスパートなのか、というともちろんそんなことはなく、特に自分などこの会社に入った当初の心理学に関する知識は、例えば「カウンセリング?ああ、“あなたのお悩み解決します”ってやつでしょ」という程度で、ほとんどシロウト以下のレベルでした。
それでも仕事をするうちに、自分の間違った知識を修正したり、少しずつ新しい知識を手に入れたりしてはいたんですが、心理学という知の体系の端っこを、折に触れて少しずつ齧り取っているような感がありました。そこで何か系統立ててステップアップする手を講じねばならん、自ら身体を張ってそれがどういうものなのか知らねばならん!と肩に思いっきり力を入れて(どうしてもこうなっちゃうんですよ)、この春から外でカウンセリング的なものを学ぶ講座に通い始めました。
まあ、外に出なきゃな、とも思ったわけですよ。
まだ途中なんですが、いやあ、行ってよかったですね。スタートした頃の実技や理論的なことを学ぶ講座では、さすがに見聞きしたことが多くて、「それ知ってます、ああそれももちろん~」という具合で軽~くスルーしていた訳ですが、背景も性別も年齢もかなり異なる人たちとのカウンセリングの実習が始まってからは、人の話を聴くこと、イコールその話をするその人の気持ちを聴くことの難しさに、大苦戦ですよ。
「悪気はないけど人の気持ちはよくわかりません」というスタンスに長い間甘んじてきたんだなぁ、と思います。アサーション・トレーニングの中で、A.エリスの非合理的思い込みを知ったときと同様に、ある種の思考の枠に捉われていることも、再確認しました。それでもなかなか変われないことが尚更身に染みます。そしてそういう姿勢を変えられない自分をどこかしら嬉しく思っている自分がいるらしいことにも気付きます。ひたすら堂々巡りですよ。
だけどそんな中でひとつ、これまでとはどこか変わってきたのかなあ、と思う出来事がありました。このひと月ほどの間に2回、通勤の途中で出会った諍いの仲裁をしました。
以前の自分は、「大人なんだから当事者同士で何とかしろよな」、と突き放した気持ちでやり過ごしたり、「お節介って言うんだよ、こういう時に割って入ったりするのは」、とか「よっぽど緊迫した状況になったら、何とかしなきゃいけないんだろうけど、このくらいならなあ」、と自分に言い聞かせたりして、まあ知らん顔をしていました。
およそしばらくすれば忘れてしまうことです。それでもその場をやり過ごした後味は悪く、割り切れなさは残るわけです。その一方では正直なところ、気に入らない奴や言ってもわかんない奴は、結局ぶん殴っちゃえばいいんだよ!式の乱暴な思考回路を肯定したい気分は、自分の中に根強くあります。子ども時代のヒーローが仮面ライダーだったりしたからでしょうか。今でもそのあたりの感じ方が、根本から大きく変わったのではないのですが、この行動の変化はどういうことなのか。
ひと月ほど前、帰宅途中の乗換駅のホームに上っていったら、真面目そうな青年サラリーマン二人がやり合っていたのが最初です。原因はわかりませんが、見たところどちらも引くに引けなくなっている様子です。お互い胸倉つかんで押し合っているので、停車中の車両やまわりを通る人にぶつかったりしています。「バカが押しくら饅頭してろよ」と以前ならやり過ごしていた筈ですが、「何があったか知らないけど、やめときなさいよ、みっともない」と割って入りました。
結局、最後まで見届けたわけではありません。自分が介入しても二人はその姿勢で一言もないまま譲らず、そうするうちに駅員がやってきて、自分がこの事情を知っていると思ったらしく「ちょっと、ご一緒によろしいですか」と言われました。自分がホームに上がってきたらこんなことになっていたので、その前の事情は知らないよ、と言ったところ、じゃあ結構ですということになり、発車のベルも鳴り始めたので、そのまま電車に乗って帰路につきました。
その電車の中で、何で自分は今日ああいう行動に出ることができたのかなあ、とぼんやり考えてみました。どうやら、カウンセリングのワークを通して、これまであまり考えてこなかった人の心へのアプローチの仕方を模索していることが影響しているんじゃないかと思われます。
つい先日も朝の通勤電車でいがみ合いながらホームに下りた二人の間に入って、5、6本電車をやり過ごし、殴り合いになることはないレベルまでクールダウンしたと思えたところで、その場を離れました。どんな局面でも、誰に対してでも「話せばわかる」とは思いませんが、「話しゃわかんじゃねえの?やめとけよそういうの」と言えそうな場面ならば、関わることに対する抵抗が、かなりなくなっているのを感じます。
人の気持ちは確かになかなかわからない。わかるためには、何だか恥ずかしいと思えるような努力も必要なような気もする。それはこれまでと変わりません。「うんうん、でもわかるよ」と、適当に共感を示してやり過ごすくらいなら、むしろ「てめえのことは気にいらねえし、わかんねえな」と、頑なに突き放す方が、わからないというレベルにおける共感であり、そっちの方が正しいのだ、というような屁理屈の方が、むしろしっくりきます。まあ極端ではありますが。
そのどちらでもなく「おめえのことはわからねえが、まあ聞こうか」、という姿勢がいつのまにやら自分の中に芽生え始めたとでもいうことなんでしょうか。なんだか、エレファントカシマシの宮本浩次氏の40を過ぎてからのの変貌っぷりにも通ずるものがありますか?おそらく多くの方には判りにくい書き方を唐突にしてしまいました。お許し下さい。エレカシ、かなり好きなものですから。
これだけ字数を費やしてもうまく言えませんが、この感じ方の変化は、まあ色んなことの手がかりになるような気がするんですがね。どうなんでしょうね。
mutsu 2009年08月18日 10:03:
通勤中はみんな殺気だってますからね。
そんな人たちのいざこざの間に入れるってすごいです。
アサーションもそうですが、講座で学んだことを、実生活の中で実践できるってすごいと思います。
sawada 2009年08月19日 09:28:
>mutsu
でも、たまたま、だったような気もするんだよ。
昨日も講座のメンバーとの雑談で、相手の言うことに、思いっきりおのれの準拠枠ガチガチの、撥ねつけるような対応をしていた自分を思い出しました。ままなりませんな~。
えるびす 2009年08月19日 13:58:
ちょっと論点ずれますけど、
喧嘩の仲裁とは勇気ある行動ですね。ソンケーの眼差し。
(しかしそんなに喧嘩している人のいる通勤電車は乗りたくないですね)
拝読して学生時代を思い出しました。
内輪では「心理っぽい」って言い方をしていた感じなんですけど…(割愛)。
ぜひ「語り」を拝聴したいですね、はあ、もちろん飲みながら。
sawada 2009年08月19日 17:18:
>えるびす様
ええ、またああでもないこうでもないと「語って」しまいました。
拝聴したいのはこちらの方です。いま自分は「聴く」を学んでいるはずなので。



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