内田勇三郎と日本・精神技術研究所(日精研)
日本・精神技術研究所は、もちろん内田勇三郎が作った研究所であるわけですが、勇三郎が、どんな風にこれを作りどんな風にこれを運営していたのかといったことについて、余りよく知られていないので、そんなことを少し書いてみようと思います。
勇三郎という人は、1925年から1928年の間、旧制第五高等学校で教授として勤務していました。この時はかなりの高給を取っていたと想像されます。しかし、それ以外の時は、いろいろな学校の講師を務めていましたので、全部あわせても大した給料は取っていなかったと思います。(1931年から1939年まで早稲田大学で教鞭をとっていましたが、この時も教授ではなくて、講師として勤務していました。)
いくつかの学校の講師や役所の嘱託のような仕事では、全部あわせても決して充分な収入は得られていなかったと思います。そこで、よく知られている人の間では、勇三郎は「借金名人」の異名を取っていたほどです。
戦後まもなく、内田クレペリン検査が世の中で実用されるようになってきます。特に国鉄が、運転手の採用試験に内田クレペリン検査を制度的に用いることを決めてから、この検査は、急速に世の中に普及するようになります。そこで勇三郎は、この検査は「商売の種」になるという見通しを持ったのではないかと思います。渋谷区西原にあった自宅の門に、「日本・精神技術研究所」の看板を掲げることになります。(これが正確にいつからだったのかということについては、決め手になる証拠がないため、ハッキリ明確に出来ません。大体昭和23年(1947年)頃だったのではないかということで、日本・精神技術研究所の創立を昭和23年としているのです。なんたるいい加減!!)
研究所の名称は、Psychotechnological Institute of Japanという欧文名のPsychotechnologyを「精神技術」と訳したものと想像されます。そして、日本と精神技術の間に「・」を打ったのは、「日本精神」と「日本技術」を研究する右翼的団体ではないということを明らかにする配慮からだったのではないかと思われます。
とにかく、日本・精神技術研究所は、そんな行きがかりから、よく言えば内田クレペリン検査の「普及」と「研究」を目的として、下世話にいえば、内田クレペリン検査で「商売」を行うために、勇三郎の個人事業として発足した研究所だったのです。
所員が何人かいて、建物もきちんとしたものがあって、といった風ではなく、所員は勇三郎と勇三郎夫人の花の二人(「パパ・ママストアー」!!)、建物も勇三郎が大正12年に自ら設計して建てさせた「迷留(める)辺(へん)荘(そう)」の一隅といった按配だったのです。(この迷留(める)辺(へん)荘(そう)については、内田純平が1995年に出版した『迷留辺荘主人あれやこれや』に詳しい。)
所員も、何年かして書生さんのようなアルバイトの人が入ってきましたが、検査用紙(荷物)の発送から経理事務のことなど、実務的なことは勇三郎夫人の花が家族などの協力も得ながら、極めて家内工業的にこなしていました。
さらに何年か経って、内田クレペリン検査の普及が促進して、どこか大きな企業が採用試験でこの検査を使うという話が持ち上がってきたときなどは、早稲田大学時代のお弟子さんなどを休日に自宅に集めて、一気に判定をして返すというようなこともしていました。
さらに時を経て、日本・精神技術研究所が、企業や官庁の人事担当者を集めて、判定技術の講習会を開催するようになりましたが、そんなときは、早稲田大学時代のお弟子さんのTさんの助力や、当時入ってきていた若い所員を動員してこなしていました。
日本・精神技術研究所のマネージメントの仕事も、勇三郎夫人の花だけではムリになってきたため、何人かの男性を雇ってその任に当たってもらいましたが、勇三郎の考え方ややり方とは合わず、みな短い期間で辞めてしまいました。結局最後までその任に堪えたのは勇三郎夫人の花だけでした。勇三郎は、内田クレペリン検査によって入ってくるお金は全部自分のお金と考え、自分の好き勝手に使ってしまうという具合に、会計などは全くの丼勘定であったため、マネージメントを人に任せるなどということは出来ない相談だったわけです。
勇三郎は、内田クレペリン検査の普及・研究のために日本・精神技術研究所を作ったのですが、その運営は、亡くなるまで、上述したように(よく言えば)牧歌的、家内工業的、前近代的、公私混同的…なものでした。
勇三郎が亡くなる直前、日本・精神技術研究所は問題点、矛盾点山積の状態でした。1966年に、勇三郎が急逝したとき、事業継承をした内田純平は、解決すべき課題をたくさん引き継いだのでしたが、取りあえず取り組んだのは、日精研の事業と内田家とを明確に切り離すということでした。具体的には、日精研を法人(株式会社)化し、日精研を独立した事業体として、内田家と切り離すという形で近代化を果たすことを目標にしたのでした。その結果、日精研は1967年に株式会社となり、何とか近代化の第一歩を踏み出したのでした。
mutsu 2009年05月24日 10:19:
日精研のルーツはこうなっていたんですね。
第2話がとても気になります!
高校生の時に迷留辺荘に迷い込んだことがあるんですが、建物が蔦で覆われた日本らしからぬ怪しげな建物だった記憶があります。



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