内田勇三郎 余滴

だいぶご無沙汰をしてしまいました。
今日は、内田勇三郎について私があるところで話したことが「内田勇三郎 余滴」と題して活字になったので、それを転載したいと思います。
2006年の11月4日に、日本心理学会第70回大会が福岡で開かれ、そこで「日本における臨床心理学の導入と受容過程③」という学会ワークショップが開かれました。そのワークショップで、明海大学講師の安齊順子氏が「ロールシャッハ・テストと内田勇三郎」という発表をされました。
私は、その発表を傍聴に行ったのですが、その場で「折角だから、内田勇三郎についてちょっと話を」と促され、短い話をしました。
その時の記録が、「心理学史・心理学論刊行会」から出ている「心理学史・心理学論」誌Vol.9に掲載されました。以下の文章は、編集部の許可を得てその文章を転載したものです。

「内田勇三郎 余滴」
 内田です。こんにちは。なぜここにきているかという話ですが、サトウタツヤ先生と安齋順子先生のお二人とそれぞれちょっと違う経緯でお知り合いになって、心理学史のメーリングリストに加えていただき、その ML でこのワークショップのことを知り、やってまいりました。
 内田クレペリン検査というのは、今でも年間80万人から100万人の人が受けているのですが、多分これまでに少なく見積もっても5000万人くらいの人が受けているのではないかと思います。
 私も自分で仕事をやっていて,いま佐藤先生がお話しになったようなこととか,心理テストの功罪とかは身を持って体験しているので,最低限,内田勇三郎のことくらいは調べておかなければいけないかなあという感じできましたが,私自身研究者でもないし,いろいろ知らないことだらけなのです。
 先ほどもお話ししたように、心理学史のメーリングリストに加えさせていただいて、たまたまこのワークショップのこともメーリングリストで拝見して、じゃあこれは行かねばなるまいということで、安齋さんにご連絡したら是非是非にと言ってくださって、本当はフロアでお話を聞くだけのつもりだったのですが、お話をさせていただくことになりました。
 用意してきた資料は、内田勇三郎年譜というのと内田勇三郎著作論文リストの2つです。まあ内田勇三郎というのは、私は基本的には在野の心理学者だったというふうに思っておりまして、いろんな学校で教えてはいましたが、私にとっては生活人としての内田勇三郎はそうとうめちゃくちゃな人でしたから、ずいぶん物心付くまではこの人が偉い学者だとはあまり思っていなくて、結構迷惑な人だというように思っていました。それでも、この年譜の一番最後に内田勇三郎についての書籍と書いてありますが、私、これまでに内田勇三郎について3冊の書籍を出版というか編集などしました。ひとつは『内田勇三郎追想集』というのを亡くなってから10年目にようやく出すことができました。というのは気分的に10年経ってようやく父親のことについてこういうものを作ってあげようかというふうに思ったということで、それまでは恨み骨髄というか、なんでこんなことの後始末を私がしなければならないのかと、ずっと過ごしていました。実は私、大学も心理学ではなくて、ちょっとひねくれて別のことをやったのですが、そういうふうで怨念がらみで内田勇三郎のことを考えていましたので、いろいろな人の話を聞くと、まあ追想集くらい出してあげてもいいかと思ってですね、出したわけです。そしたらこれが実は関係者41人の追想文を収録したんですが、心理学者もかなり、何人かいた。それからその心理学者の名前をもしかするとご覧になるだけでも、結構ああこんな人とも関係があったのかというようなことがお分かりいただけると思うのですが、これも絶版になってしまいまして、これがまた古本屋では結構高い値段が付いていて、やっぱりサトウさんのような心理学史の研究者が増えてきているからかなと思いました。もう一つ私が『迷留辺荘主人あれやこれや』――ああ、これをリストに載せるのを忘れていますが、これも古本では高くなってしまっているということで、元は1,365円の本なんですが、今は4,000円くらいになっているそうです。
 内田勇三郎周辺の心理学者がこの『内田勇三郎のしごと』という、リストの真ん中の本がありますが、戸川行男先生のおすすめで、「内田先生のエピソードだけでなく仕事もした方なんだからそういった本も出したら良いんじゃないか」ということで出した次第です。これも絶版なんですけれども、心理学関係者24名の方が書いてくださっていて、ああこういう人とも関係があったのかと改めて思いました。
 私実は今日お話に出てきた方で言えば、例えば桐原先生だとか上野陽一先生だとか、三宅鑛一先生はもちろん直接は知らないのですが、安齋さんによると、日本で心理学者が精神医学者と一番最初に仕事をしたのは内田勇三郎と三宅先生だったんじゃないかということを言って下さって、へえそんなものかというふうに思って感心したのです。だいたい心理学史というジャンルがあることもしらなかったですし、西川先生とはもうずいぶん前からお知り合いだったのですが、西川先生がそういうことをやってらっしゃることも知らなかったし、放送大学で心理学史の講座があるということもそのとき初めて知ったというくらいでした。
 ただ、これはちょっと残したほうがいいのかなと思うのですが、私は心理学者のエピソードというかゴシップを知っておりまして、岡部弥太郎先生のプライベートなこととか、誰々さんはお酒を飲むと大変だとかですね、そういうことを結構たくさん知っていて、それももしかしたら貴重なのかもしれないなと、なんかのときにそういうのを、『心理学史・心理学論』には出せないようなお話でしょうが、例えば伊吹山太郎先生、京都大学の産業心理学の大家ですが、先生の若い頃をよく知っていていろいろと逸話がおありだし、乾孝先生という大変変わった、法政大学の児童心理学の先生で、勇三郎のお弟子さんですが、この方についてもものすごくたくさんエピソードをいろいろ知っていて、乾孝先生については亡くなって10年経っても何も出ていないので、ぜひそれは、そういう本は出したほうがいいんじゃないかと、お弟子さんたちをいま一生懸命叱咤激励しているとか。
 たまたま内田勇三郎の息子というポジションにいたために、結構いろいろ、今日のお話でいうとそれこそサトウタツヤ先生の「外部史」ではなく、「超内部史的な」(笑)視点で、いろんなことを知っています。私の母親というのは要するに苦労した心理学者の妻というポジションを確保しているわけですけれども、私の母親は,内田勇三郎が筆不精というかもう作業障害に近い人だったんですが、自分が作業障害があるから統合失調症というか分裂病に対して非常に親近感と興味を持ったというふうことで、内田花という私の母親は、これはもう書き魔でございまして、大学ノート何十冊もの日記をつけてまして、これをパラパラ散見すると、「誰と誰が来て、長っ尻で困った」とかですね「酒を飲むとあの人はダメだからどうだ」とかですね、「あの人は絶対何度来てもお土産というものを持ってきたことが無い」とか(笑)、そういうことをたくさん書いていまして、いわば少し、もうお年を召した方ばかりなのですが、心理学史的には関係があるかどうか疑問ですが。
 今日の安齋さんのお話を伺っていると、非常に客観的に研究者として扱ってらっしゃるという感じがして、あれが内田勇三郎の話かというふうに思ったりもします。内田勇三郎という人はとにかく非常に新し物好きであったので、ロールシャッハもたぶん、そんなことで手を出したんじゃないかと思います。なんかまあ、楽屋話のようなこともしっているので、安齋さんがあんなにおっしゃるようなことなのかと、今日改めてうかがって大変興味を持ちました。どうしても外部史的な位置づけとなると、当人の息遣いとかはご存じないわけですから、私がもしすることがあるとすれば、「方法」が見つからないのですが、お役に立つこともあるのかなあと思ったりしております。
 資料の内田勇三郎の書いた「論文」のところを見ていただくと、ある傾向が非常にありまして、専門的にどういうふうにいったらいいか分からないのですが、非常に生物学的な志向が強いわけです。実は彼は医者になりたかったという噂がありまして、これを確かめることはできないのですが、自分の兄、私の伯父ですが、内田清之助という日本で鳥類学の図鑑を一番最初に作った人だといいます。親戚中生物学者だらけで、九州でいうと内田恵太郎さんという九州大学で鮎の研究をやっていた人が勇三郎のいとこで、もう、ぞろぞろと生物学者がいて、自分が生物学者になれなかったということで、心理学でこういうことをやったのかもしれないと思っているわけです。三宅鑛一先生との出会いというのは非常に大きな意味があったということですし、早稲田大学に行ってからは戸川行男先生という非常に書くのがお上手というか熱心な先生が助手についていらしたので、筆不精の内田勇三郎のアイデアとかなんとかを全部論文にしてくださって、この下のほうに出ているのは、「実験的意志障碍」関係ですが、「実験的意志障碍」というのが、心理学外部史的にいってどういう位置づけになるのか、私にはちょっと分からないのですが、わりあいと珍しいものであったと思うし、「実験的意志障碍」みたいなものは、今この時代になって、測定機器類が非常に飛躍的に進歩したことでこういう感じの研究はあると思うのですが、その当時何も無いところで、こういう「実験的意志障碍」とか、嘘発見器も内田勇三郎が一番最初といわれていますが、そういうことももうちょっと心理学史的に位置づけてみてもいいかなと思います。それから「メスカリン実験」、メスカリンという、これはオウムがマインドコントロールとかで使用するため化学的に合成したのですが、これを1937年に内田は自分で注射を打って、それのプロトコールを取ったりしていました。このプロトコールを取ったのが実は依田新先生だったとかですね。依田新先生と正木正先生、もちろん専門の方はご存じだと思いますが、第五高等学校で内田勇三郎に心理学を学んでいて内田勇三郎に非常に親近感を抱いて、依田先生と正木先生はわりに接触をしていたとかですね。
 そんなこともありまして、まあちょっと私もなんかこんな感じで一生内田勇三郎とつきあってしまうというのも業腹だというふうに思うし、それに母親のことも絡ませたりすると、結局一生両親に関わって死ぬということになって、あまりオリジナリティが無いなというふうに思っていかがかなとも思うのですが、でもやることはまだまだあるような気もしておりますので、もう少しで仕事から退こうかなと思っていますので、そういうふうなときになったなら、例えば「軍事保護院における頭部外傷者のリハビリテーションと内田クレペリン検査」とかですね、そんなのもあります。内田クレペリン検査に対する外部史的見地に立つと、まだいろいろ研究することがあるかなと思っております。(「心理学史・心理学論」誌Vol.9 64頁~66頁)

日時: 2008年10月08日 11:29   カテゴリ: ユウザブログ   投稿者: uchida-j
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