「TOKYO YEAR ZERO」デイヴィッド・ピース

デイヴィッド・ピースの『TOKYO YEAR ZERO』読了しました。
解説によれば、(ジェイムズ・エルロイ+ジム・トンプソン)×(上田秋成+泉鏡花)だそうですが、このクセの強い文体は、きっと好き嫌いがはっきり分かれるんだろうなあ。エルロイの『ホワイト・ジャズ』を初めて読んだときもぶっ飛びましたけど、この『TOKYO YEAR ZERO』にしても叙述と叙情が渾然一体となった一人称の羅列から、どうしてこんなに複雑な物語が浮かび上がってくるのかと驚かされますね。
この徹底的な一人称というスタイルは、映画でいえば「潜水服は蝶の夢を見る」なんかと同じく読者を主人公に一対一で接続してしまうという意味で、とてもサイボーグ体験的な効果を生んでると思うのですが、この『TOKYO YEAR ZERO』の場合、読者である僕とコネクトされた主人公のアイデンティティの揺らぎが、物語が進むにつれてだんだん大きくなっていく感じが、なんとも気持ち悪いんだよなぁ!もちろん、著者は意図的にこの気持ち悪さを演出したんでしょうし、それはすごく成功していると思います。
ついでながら。もしこれからこの本を読んでみようという方がいらっしゃれば、この物語をさらにリアルにメタ体験するコツをひとつお教えします。それは、8月中に読むことです。できれば8月15日から読み始めて。
タイトルの『TOKYO YEAR ZERO』といういのは、1945年=終戦のことなんですね。1945年の8月15日に品川で発生した殺人事件を発端にして、物語は翌年1946年の8月 15日から28日にいたる二週間で完結しています。前述したように、この小説の肝は主人公と読者の「共感覚」にこそあるので、思考、感情、感覚、すべてが混濁してしまうような、東京の8月の「暑さ」が重要な演出になりうるんですよ。この本は発売から10ヶ月くらい寝かせてあったんですが、この時期に読んだのは結果的に大正解でしたね。だから、これから読む方は8月のうだるような酷暑のなかで読んでください。この小説の「気持ち悪さ」が数倍アップすると思います(苦笑)。
でも。一人称だ、夏に読めだ、とごちゃごちゃと書きましたけど、けっきょくのところ僕がこの小説でもっとも魅かれたところは、その時代設定とテーマです。この『TOKYO YEAR ZERO』は三部作の第一作目にあたるのですが、その一作目の中心となるのが「小平事件」という実際にあった連続殺人事件。そして二作目が「帝銀事件」で、三作目が「下山事件」。昭和史に残る三つの事件を軸に、占領期の日本の闇を描く。って、これはエルロイの「アンダーワールドUSA」の日本版じゃないか!
しかも、物語の重要なセットとして松沢病院まで登場してきたりして。なんだか、物語のなかに内田勇三郎がひょこり顔を出してもぜんぜん不思議じゃないような。そんな錯覚すらおぼえてしまいました。実際には、内田勇三郎が松沢病院にいたのは1923年ころの話らしいですが(残念!)。
でも、前に読んだ『日本の精神鑑定』によれば、小平事件の犯人・小平義雄は精神鑑定のなかで内田クレペリン検査を受験しているみたいなので、当たらずも遠からずって距離感ではありますね。
(以下引用)「また連続加算による作業能力試験によると、彼は十分間に一位の数字の加算を二百二十一回行うことができた。すなわち一分間における平均作業量は二十二・一であって、正常人の作業能力よりはやや低いが、その差は軽微である。なお五分間の休憩後にさらに五分間の作業を行わせたところ、一分平均の作業量は二十五・八に増加していた。この成績もほぼ中の上であって、他の諸所見に相応したものである。」だそうです。
時間条件は、10分、5分休憩、5分と、かなり省略しているみたいです。検査結果も作業量と休憩効果くらいにしか注目していないので、かなり略式で使用されたようです。それでもやっぱり親近感がわいてきますね。
松沢病院は今後も重要な舞台になっていきそうですし、今秋に予定されている第二作目の発売が今から待ち遠しいなぁ。



このエントリーのトラックバックURL
http://www.nsgk.co.jp/mt/mt-tb.cgi/159