注連縄(しめなわ)

先週の土曜日、町内の注連縄(しめなわ)張りに参加してきました。今回、三年ぶり三回目の注連縄張りだったのですが、あらためて注連縄ってものが持つメタファーとしての意味に気づかされました。
注連縄張りの手順としては、まず、自分の住んでいる町内の端の家から順々に訪ねていっては、「すみませ~ん、町内会ですが、お祭りの注連縄張りに来ました~」って声をかけるわけです。もし家人が在宅していれば「あ、お願いします~。ご苦労様。あら、今年はmomotoさんも参加してらっしゃるんですね~。」「いえ、こちらこそ、いつも娘が集団登校でお世話になっています~」なんて会話を交換をしつつ。最後に、「これ、少なくって申し訳ないけど」なんてエクスキューズ付でお祭りのご寄付をいただき、「いつも、ありがとうございます!お祭りの当日は神社にほうにも、ぜひ顔を出してください~」とお返しに手ぬぐいを渡す、と。
まぁ、これが一番ポピュラーな流れなんですが、さすがに50軒近くの世帯をまわっていると、いろいろなバリエーションがあるんですね。「ご苦労さまです。うちは喪中だから、今年は遠慮させていただきます~」って穏当なものから、「宗教上の理由でお断りさせていただきます」って硬派な理由、あるいは「うちは、そういうのいりませんから」っていうセールスと勘違いしてそうなもの、もっと酷いのは明らかに在宅している形跡があるのに居留守使ってたり。。。
そのほかにも、普段は門の外からしか見ない隣近所の家ですが、いざ玄関まで入ってみると、普段は気づかないことが見えてきちゃうんですよね。あぁ、なんだかこの家は荒んだ雰囲気だなぁとか、この家は神経質そうだなぁとか(えてして、そいう家に限って非協力的だったり)。
さらに重要なのが、一軒が終了して次の家に移動するまでの間に交わされる町内会の先輩方の会話です。「あれ、○○さんの家って、おばあちゃんいらっしゃいましたよね。」「なんか、老人ホーム入れちまったらしいよ」とか。「あいつんちは、犬の散歩しててもろくに挨拶もしねえよ」とか。つまり、町内においてその家がどんなふうに受け取られているのか、って客観的な情報が交わされて、その評価が共同体のなかで定着していく。なんつうか、ある種のアセスメントですよね。
こういった一連のプロセスを繰り返していくと、最終的には町内の社会的な紐帯の状態が一通り把握できるようになっている。しかも「社会的な紐帯(あるいは、社会関係資本)」なんていう本来は形のないものが、「注連縄」というメタファーで可視化されるっていうのが、このシステムの面白いところだと思いますね。どことどこは結ばれていて、どこが綻んでいるのか。呪術的なプロセスと言っても、過言じゃないような。
クリストの「梱包」芸術なんて、かなり「注連縄」のコンセプトに近いようにも思いますし。
そもそも「注連縄」だけじゃなくって、「お祭り」ってものが、そういう社会関係資本の強化のためのPDCA(Plan、Do、Check、 Act)の集積になっているんでしょうね。うちの娘は、この二週間ばかり子供会の「太鼓」の練習に勤しんでいますが、これだって同じリズムを子どもの頃から刷り込むという意味において、ソーシャルスキルの勉強の場になっているんでしょうね。
こういうシステムも行き過ぎると、五人組みたいな相互監視システムになったり、村八分みたいになったり、完全な呪術=結界になっちゃうんでしょうが(映画「ホットファズ」を観よ!)。やっぱり子どもを育てたりするには、もう少し緩やかであっても、ある種の結界に所属していたほうが安心というのは、正直、思いますね。うちの子どもたちが、町を歩いていれば、必ず誰かが「あ、momotoさんちの子だ」と見ていてくれる感じ。
まぁ、いまの僕にとっては社会的な関係にがんじがらめの田舎町=結界もきついでしょうし、かといってあまりにも社会関係資本が磨り減っちゃった都会=決壊というのも不安ですし、その中間として「多少の綻びある」町というのが住みやすいんじゃないないかと、あらためて思いました。
※ プライバシー保護のため、会話の内容は多少脚色してあります。



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