「私の身体は頭がいい」 内田樹著

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著者によると、人類学的にいえば身体能力の開発とは、「外部から到達する邪悪なものから身を守るための訓練のこと」だそうです。
つまりまず大切なのは、危機に出会った時それにどう対処するかではなく、危機に出くわすことが無いようにそれを感知する能力の開発であり、かくれんぼや鬼ごっこや缶蹴りやハンカチ落としは、すべて「目に見えず、耳に聞こえないで接近してくる邪悪なもの」を、いち早く感知し反応するために子供たちに遊びとして提示された能力開発プログラムだったと解釈されます。
現代人の多くは「生き延びるための能力」を「金を稼ぐ能力」と同定している。しかしそれは例外的に平和な、「邪悪なもの」がもういなくなったと人々が信じた社会においてだけのことである。「邪悪なもの」は形を変えはしたが消失したことは決してなく、そのことを忘れないほうがいい、と著者は結びます。

その昔、ヤンキーと呼ばれた若者たちが、制服のズボンの太さを競い合った時代がありました。あれは、その太さがいわゆるヤンキーとしての「気合い」の入りっぷりを表すための示威行動であった訳です。
優れた格闘家は、常人には感知することのできない相手の微妙な動きを見抜き、攻撃を紙一重でかわすと言われます。とすると太いズボンの起源は、いざ戦闘モードに入った時、微妙な足の動きを相手に悟られずに先手を取るためという、極めて実用的なところにあったのかもしれません。

そして翻って今日の日本では若者のズボンのはき方の流行のひとつとして、やや下火になった感はあるものの、パンツをたくさんはみ出させたものの勝ちだとばかりにズボンをずり下げるスタイルがあります。あれは、どう見てもどれだけ自分が危険な存在であるかをデモンストレーションするための方策ではなさそうですがそれはさておき、他校の生徒と行きがかり上、やんのかこの野郎!となった時、彼らはあのズボンをどうするのでしょう?脱ぐのか?穿くのか?いずれにせよ争いごとには向かないなあ、と思うわけです。
つまりあの腰パン(と言うそうです)は、現代の若者たちの危険なもの邪悪なものの存在を察知するセンサーが、相当に鈍磨してしまったことを如実にあらわす風俗であるとは言えないでしょうか。

何事にも合理的な解釈を求めようとすると、屁理屈に堕することのほうが圧倒的に多くていけませんね。論理的で限りなく明快な本を読んだからといって、今さら頭はそう簡単には良くなってくれません。

だからというわけではないのですが、合気道を習いに行くことにしました。これまで全く経験したことのない身体の使い方を少しずつ覚えることになりそうです。頭ではなく身体で考える、ということになるのかもしれません?楽しみです。

日時: 2007年10月10日 14:56   カテゴリ: 読んだら・・・   投稿者: sawada
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